岩国市関戸倉庫で「錦帯橋 匠の技 特別展」を
10月・11月に限定して開催いたします。
詳しくはこちら↓

 

ただし、錦帯橋国際シンポジウム開催の都合により
11月13日(土)・14日(日)はお休みいたします。
なお、会場は常に開いているわけではありません。
予約時間に限って、その都度数少ないスタッフが対応しているのです。
申込みは3日前までに、岩国市観光振興課
電話(0827)41?1477で予約してください。
上記以外の日でも、どうしても都合がつかない場合もあります。
あしからず、ご了承下さい。
ところで、昨年の春、秋、そして今年の春と開催してきましたが、
この秋は、キジア台風60年という錦帯橋にとって
節目であることから、若干展示内容を変更し、
錦帯橋キジア台風コーナーを設ける予定です。
担当者の思いつきでの試みなので、過度な期待はしないでね。

特別展の内容については、これから先
何回かにわけて御紹介します。

 

今回の錦帯橋を訪れた有名人は吉川英治を紹介します。
吉川英治(1892-1962)は時代小説で有名な小説家です。
代表作は佐々木小次郎を岩国出身としていることでも知られる『宮本武蔵』、『新平家物語』、『三国志』などがあります。
昭和13年、吉川英治が岩国に訪れたことは当時の新聞記事(『興風時報』)にも紹介されており、当時執筆中の『宮本武蔵』の取材だったようです。
なお、小説の中で武蔵が箸で蝿をつまむシーンがありますが、これは岩国の剣豪宇野金太郎が得意としていたもので、これを参考にしたともいわれています。

写真資料『句』(岩国徴古館蔵)
我以外
皆吾師也
  吉川英治

 

「その7」をあげた後、
どうしても錦帯橋の写真がとりたくなりました。
「60年前」を意識したアングルの今日です。
訪れた人も汗を拭う、実に清々しい秋晴れ、
ファインダーを覗けば、何も起こるはずのない今、
持ち出した凄惨な写真の橋と山の位置関係を
幾度となく見比べながら慎重にシャッターを切りました。


 

 

当時を知らくてもちょっぴりセンチになるというものです。
 

今日からちょうど60年前の
昭和25(1950)年9月14日キジア台風により流失しました。
本編「歴史」でも取り上げていますが、もう少し写真を紹介します。

 

 再建に向かう写真も多数あるのですが、それはまた別の機会にご披露します。
これで大水編はひとまず終了です。

今回の錦帯橋を訪れた有名人は野口雨情を紹介します。
野口雨情(1882-1945)は大正期の詩人で、民謡・童謡作家として有名です。
代表作は「七つの子」、「赤い靴」、「シャボン玉」などがあります。
上の写真の左から2番目が野口雨情で、初代岩国市長永田新之允達と一緒に写っています。
 

これは写真の裏書です。
昭和十年五月十七日撮影
野口雨情先生岩国小唄
来詠記念
向テ右ヨリ
岩国町長
 永田新之允
岩国町会議員
 中塚 豊
 野口雨情氏
 森川憲之助氏

錦帯橋の橋杭が外れたのは、何も平成17(2005)年が
初めてのことではないことを証明している写真があります。
この写真には、明治35(1902)年8月10日と裏面に説明があります。

当時の錦帯橋は、国道として使用されていました。
それにしても、これだけ水位があるのに、橋の上には何人か立っています。
228年(1902?1674)もの長きにわたり
「流されていない」実績が燦然と輝いている時代です。

現在では、これだけ増水すると入橋を止める場合があります。
万が一のときには、管理者の責任が問われる時代なのです。

平成17(2005)年 台風14号?

橋杭2基を流失という被害を受けたものの、
考え方を変えれば橋本体が無事だったわけで、
致命的な被害は免れたといえます。
実は、桁梁のホゾ穴に差し込む橋杭の凸部分は、
先細りに加工されていました。

 

代々の橋がこのように加工されていたのですが、
平成の架橋工事の時点では理由がはっきりと分かりませんでした。
洪水のような大きな力がかかったときに、
外れやすくするための知恵だったということが、
この経験をもって理解できたのです。

もしも、頑丈につなぎ止められていたら、
橋本体に大きなダメージが残るような惨事になっていたかもしれません。
本体を護るために敢えて外れやすく取り付けてある橋杭は、
電気回路におけるヒューズと似た役割を持っているわけですね。

そうはいっても、人が押したり引っ張ったりするくらいでは
外れません(もちろん試してはいけません)。

この復旧工事の詳細については、また別の機会にお送りします。

平成17(2005)年 台風14号?

流失した翌日から、橋杭などの部材の捜索を行い、
発見した部材は全て回収しました。

回収先を一部紹介します。
錦川下流の自動車学校付近(直線距離で約1.3km)
米軍基地沿岸部(直線距離で約6.3km)

最も遠いもので祝島(直線距離で約46.2km)


 

などです。
こうして回収した部材のうち損傷の少ないものは、
あらためて錦帯橋部材として使用しています。

破損が著しいなど、
錦帯橋の部材として活用できなかったものの中には、
5分の1模型に再加工されて次の人生(?)を
送っているものもいます。


 

もう少し続きます。

錦帯橋は江戸時代から名所として知られており、多くの有名人が訪れています。
ここでは、錦帯橋に訪れた有名人を資料から紹介します。
第1回目はドラマでも有名な天璋院(篤姫)です。
天璋院(1836-1883)は、薩摩藩島津家一門の家に生まれ、江戸幕府第13代将軍徳川家定に嫁いだ人物です。
上の資料『岩邑年代記』(岩国徴古館蔵)から、錦帯橋を見物したことが分かります。
また、『御用所日記』(岩国徴古館蔵)という資料には、もう少し詳しいやりとりが記録されています。

 

写真資料

『岩邑年代記』嘉永6年9月11日
一 同十一日、薩州姫君様、昨夜高森泊にて、今日大橋御廻り。児玉屋え御小休。今晩久波御泊の由。横山乗越え鉄炮頭中村靜衛、錦見乗越え町奉行今田七右衛門手子藤村十兵衛、御案内御使者有之候に付、御客屋え御使内坂左門。
 但、御同勢沢山。此度、公儀えお輿入と申評判。
 

平成17(2005)年 台風14号?

猛烈な雨をもたらしたこの台風により錦川はみるみる増水し
9月6日23時30分ころ第1橋の岩国側から4番目の橋杭組が、
更に7日 0時45分ころ同じく岩国側から5番目の橋杭組が、
流失してしまいました。


 

これだけにとどまらず、第5橋側の橋杭が折損するなど
近年にない大きなダメージを受けました。

もちろん現在はすっかり復旧も済んでおり、問題なく渡れます。
続きは次号です。

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