優れた天然の外堀・錦川は、同時に政治と暮らしを分断していた。

【第一章】

出雲富田(12万石)から岩国(3万石)へ

慶長5年(1600)、関が原の戦いに際して、西軍の豊臣方だった毛利輝元に仕える吉川広家は考えていました。この戦の勝者は東軍の徳川方になるだろうと…。そこで、関が原の戦いの前夜、吉川広家は、毛利輝元の重臣と共に、徳川方と密約を結んだのです。「戦において毛利軍は中立を守り、動かない。だから、毛利氏の領国112万石はそのままにするように」。

合戦は広家が予測した通り、東軍の勝利に終わりました。密約を守り、動くことのなかった毛利家は安泰と思われました。しかし、輝元は西軍の総大将として連判状に名を連ねていた身。家康は密約を反故とし、毛利家のお家断絶を決めました。そして、吉川広家については、密約を守り、誠に律儀だったとして、周防国・長門国のニ国を与えることとしたのです。

その決定は広家にとって、本意ではないものでした。すぐに広家は、毛利家存続のために全力を尽くしました。その甲斐もあり、家康は毛利家の断絶を改め、輝元へ周防国・長門国を与えることにしました。

広家もまた、輝元より周防の東の要所となる岩国(3万石)を与えられ、出雲の富田(12万石)から移ることになりました。

吉川広家
吉川広家

城下町岩国の成立

慶長6年(1601)、岩国に入った広家はすぐさま領内を検分し、城下町の造営に着手しました。合戦直後という不安定な情勢にあって、城下町は防御に重きをおく形となりました。

横山の山頂を要害(防御するための砦・城塞)として城を、山の麓には御土居(おどい;藩主の居館・屋敷)を築くことにしました。そして、錦川を天然の外堀とし、内側の横山地区に諸役所や上級武士の居住区を、対岸の錦見地区に中下級武士や町民の居住区を置くことにしました。

慶長7年(1602)、上の御土居(広家の母の居館)と下の御土居(広家の居館)を築きました。また、慶長8年からは山上の要害を起工し、慶長13年に竣工、森脇飛騨守、兼重杢之允、森脇新右衛門らに城番を命じています。しかし、この件は、元和元年(1615)に出された一国一城の制により破却されました。

岩国藩は城下町形成の過程で、防御に重きをおいたために、一つの不便な点がありました。それは、錦見地区に住む中下級武士は、藩政の中心である横山地区へ行くために、幅200m の錦川を渡る必要があったことです。橋は、城下町が造営された当初から架けられていたと思われますが、出水により度々流失し、藩政に与える影響は深刻でした。

岩国藩領土図(1866年) 岩国城旧天守閣
岩国領全図(一部)(1866年) 岩国城旧天守閣石垣
※岩国が正式な藩となったのは明治元年

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