「錦帯橋」という名の由来は謎のまま…

【名前の由来】

創建当時は「錦帯橋」という名は付いていなかった

  「大橋」と呼ばれることが多く、吉川広嘉が幕府から名前の記載を求められた際にも「岩国大橋」と書いたと言われています。他にも「凌雲橋(りょううんばし)」、「五竜橋(ごりゅうばし)」、「帯雲橋(たいうんばし)」、「算盤橋(そろばんばし)」など、複数の呼び名がありました。「錦帯橋」という呼び名が広まったのは、安永年間(1772~1780)頃で、公式名称に認定されたのは、明治維新後のことです。

「錦帯橋」の名前が初めて登場した史料は、宝永3年(1706)、岩国の儒学者、宇都宮遯菴(うつのみやとんあん)による「極楽寺亭子記(ごくらくじていしき)」。その中に「またいわく、錦帯橋、錦見(にしみ)の里に近きを以てなり」と書かれてあり、錦見という地名から名付けられたのではないかと言われています。

こんな説もあります。吉川広嘉が錦帯橋創建のヒントにしたとも言われている、中国の反り橋「蘇公提(そこうてい)」。この風景が錦の帯のように美しく「錦帯」と呼ばれていたので、そこから名付けたとか。また、漢詩から引用したのではないかと考える人もおり、どの説が正しいのかは未だに分かっていません。

【文化財指定】

錦帯橋は、大正11年(1922)3月8日に史蹟名勝天然記念物保存法によって名勝に指定されました。また、昭和18年(1943)に区域の追加指定がされています。さらに、昭和25年文化財保護法施行に伴い、改めて名勝に指定されています。

1.官報告示
■官報  第二八七七號 大正十一年三月八日
〈内務省告示第四十九號〉
史蹟名勝天然記念物保存法第一條ニ依リ左ノ通指定ス
大正十一年三月八日  内務大臣 床次竹二郎
■名勝 錦帯橋  県:山口  郡:玖珂  村:岩国町  大字
■区域 橋梁、橋梁の上下流各六十間以内の川敷及国有川沿地
橋東道路敷四十七坪七合  橋西道路敷四十坪七合
■官報 第四九八五號 昭和十八年八月二十四日
〈文部省告示第七百二十七號〉
大正十一年内務省告示第四十九號ヲ以テ指定シタル名勝錦帯橋ノ地域ニ 左記地域ヲ追加ス
昭和十八年八月二十四日  文部大臣 子爵 岡部 長景
■地名 山口県岩国市大字横山字蓼原
■地域 自六〇七番至六一五番、六一六番ノ一、同番ノ二、六一七番、六一八番、 自六二一番至六四〇番、六四一番ノ一、同番ノ二、自六四二番至六五五番、 同番ノ一、六五六番、六五七番、六五八番ノ一、同番ノ二
■地名    山口県岩国市大字横山字大川端      
■地域  四〇番ノ一、四三番ノ一、四四番ノ一、四五番ノ五、四六番ノ一、自四七番至四九番、 五〇番ノ一、同番ノ三、自五三番至五五番、五六番ノ一、同番ノ二、五七番ノ一、 五九番ノ一、自六〇番至六四番、六五番ノ一、七二番ノ一、七三番、七四番、 七五番ノ一
錦帯橋橋梁ノ上下流各六〇間ノ地點ヨリ上流三五〇間下流二三〇間以内ニ於ケル堤塘敷及河川敷
2.指定説明
穹窿形ノ奇構ヲ以テ卋ニ著ハル五個ノ弯曲セル木橋ヨリ成リ延長約百二十五間上下流ノ河底ニハ各約六十間ノ石甃ヲ敷キ四個ノ石造橋脚ヲ設ケ両端ノ二橋ニハ柱橋アルモ中ノ三橋ニハ之ヲ用ヒ弯曲ノ度少シク強シ延寶年中ノ創設ニ係リ尓来数々損傷ヲ修メテ舊形ヲ今ニ存ス
指定地域図
指定地域図

 

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