流失しない橋の実現。それは、藩の悲願となり、研究がはじまった。

【第二章】

度重なる橋の流失

残された資料で橋の存在が確認できるのは寛永16年(1639)で、9月17日に、河上源介などが連名で出した布令によると「横山橋損候はゞ、不依多少、即時つくろひ可申候事」「河狩之者など橋之下にて火燃せ申間敷く候事」とあります。また、「橋柱に舟筏一切つながせ申間敷候事」ともあり、橋の重要性が認識されていたことと、当時の橋は決して強いものではなかったことが、想像できます。この橋は間もなく流失したようで、しばらくは渡船に頼ることが続きました。

錦帯橋図(一部)より伝・渡辺英喜筆(1807年)

承応3年(1654)の記録によると、橋がないため、6月より渡船は2艘、乗手4人とする、と記されており、それまでは1艘だったと思われます。少々の出水や風では、渡船を止めることはなかったのですが、限度を超える水が出ると、渡船は危険となり、川を渡る手段はなくなりました。城下町は川で二分され、政治もままならない状況に陥ったのです。

二代目藩主・吉川広正は、明暦3年(1657)3月から架橋にとりかかり、9月16日に渡り初めを行いました。しかし、この橋もまた、万治2年(1659)5月19日の洪水により流失しました。

橋が度々流失する最大の要因は約200mという広い川幅と、急流になりやすい川の形状にありました。城下町付近で流れの向きは、何度も大きく変化していました。また、川床には砂利が深く堆積し、そこに建てられた橋脚は、激しい流水に耐えることができませんでした。また、当時の藩の技術者は大きな橋を架設した経験に乏しく、砂利にしっかりした橋脚を築く技術もなかったと思われます。

流れない橋の実現。それは、藩の悲願になっていました。

流れない橋の研究

吉川広純(後の広嘉)は早くから、流れない橋への研究を始めています。家臣の小河内玄可に橋の模型を作らせ、真田正臣にも橋についての相談をしています。また、有能な技術者であった児玉六郎左衛門と児玉九郎右衛門兄弟に命じて、橋の検討や創意工夫をさせました。加えて、藩内外の橋の研究もしていたと考えられ、錦帯橋創建の1年前にあたる寛文12年(1672)には、九郎右衛門を長崎に派遣しています。名目は広嘉の薬を買うためでした。しかし、技術者である九郎右衛門をそのためだけに派遣するとは考え難いこと。眼鏡橋など長崎の石造アーチ橋を研究させたとも考えられます。橋脚のないアーチ橋なら、橋は流されることはないと考えたからです。

吉川広嘉(1662年まで広純)の努力により、アーチ橋の研究は進みました。しかし、どうしても解決できない問題がありました。それが約200mという錦川の川幅で、この川幅を一つのアーチでまたぐのは、当時の技術では困難だったのです。実際、当時の橋脚のないはね橋は川幅の短いところにかかるものばかりでした。

吉川広嘉像 長崎 眼鏡橋
吉川広嘉像 長崎 眼鏡橋

ある絵との出会い

そんな広嘉には27歳の頃から患う持病がありました。一時は回復したものの、40歳頃から再発し、その療養に専念する時期を過ごします。そんな時、明の帰化僧・独立(どくりゅう)の名医としての評判を聞きました。広嘉は早速、侍医佐伯玄東を長崎に遣わすなどしてついに、寛文4年(1664)4月13日、独立は岩国を訪れ、広嘉の治療をすることになったのです。

あるとき、独立の故郷、杭州に話は及びました。杭州には名勝西湖があり、西湖について書かれた本『西湖志』を独立は所有していると言います。広嘉はそれを見たいと望み、独立はわざわざ飛脚を長崎へ遣わし、本を取り寄せています。

2ヶ月ほどが過ぎた6月10日、飛脚が持ち帰った『西湖志』を開いた広嘉は、机をたたいて大いに喜んだといいます。そこには、五つの小島にかかる小さなアーチ橋が描かれていました。

広嘉は閃きました。錦川にいくつかの島を築いて、これにアーチ橋を架ければいいのだと。

西湖志の挿絵

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