【沿革】

西暦 和暦 月日 概要
1600 慶長5   関ヶ原の合戦
    11. 2 吉川広家、岩国付近3万石を受領
1601 慶長6   横山・錦見に屋敷割り当て、城下町の計画なる
1602 慶長7 土居の普請に着手
      家中の屋敷普請
    吉川広家入城
1605 慶長10   このころ錦見の町割ほぼそろう
1608 慶長13   岩国城天守閣完成
1615 元和元   岩国城天守閣を破却
1620 元和6 5.21 洪水
1635 寛永12 7.25 洪水
1636 寛永13 4. 9 横山船渡りの掟を制定
1639 寛永16 9.17 横山に架かっている橋に関する布令、これにより橋の存在が確認できる
1657 明暦3 9.14 2代藩主吉川広正により、横山、錦見間の橋が架かる
1659 万治2 5.19 明暦3年に広正が架けた橋が流失
1662 寛文2   吉川広純が広嘉と改名
1664 寛文4 2.22 広嘉の侍医佐伯玄東が明の帰化僧独立に会いに長崎へ
    3.16 長崎の皓台寺月舟が広嘉へ独立を岩国に招聘することを勧める
    4.13 独立が岩国へ
    4.   独立と広嘉が対面、『西湖遊覧志』が話題となったので、独立が長崎へ飛脚を送る
    6.10 飛脚が『西湖遊覧志』を持ち帰る
      広嘉が『西湖遊覧志』を読んで机をたたいて喜び、「会心の奇処を得た」と言う
1665 寛文5 2.28 広嘉が家督相続、3代藩主となる
1669 寛文9 8.12 洪水
1672 寛文12 7. 4 作事組で錦帯橋の設計者である児玉九郎右衛門が長崎へ行く
1673 寛文13 6.28 橋脚の鍬初
    7.19 舁石の行事
  延宝元 9.30 錦帯橋が完成
    10. 1 御普請奉行宇都宮杢之允、祖式惣左衛門召し出され苦労を賞される
    10. 3 渡初め、往来が可能となる
    10.11 宇都宮杢之允、児玉九郎右衛門等、工事関係者へ褒美が下される
1674 延宝2 1.17 広嘉による橋の見分
    5.28 洪水により中の3つの反橋が落ちる、両側の柱橋は無事
    6. 1 再建のための普請を始める
    6.14 洪水により木材が流れる
    8.17 洪水、御普請方と他の協力により木材は無事
    10.25 再建工事が完了
    11. 3 渡初め
    11.11 事務及び技術の主要役人に料理が振舞われる
    11.12 弓組、事務及び技術の補佐的役人に料理が振舞われる
    11.15 広嘉による橋の見分
1675 延宝3   湯浅七右衛門、米村茂右衛門が、要害石垣の築造法などを学ぶため、近江の戸波駿河のもとへ派遣される
       橋の架替、補修のために、全階級から橋催相を徴収
1676 延宝4 9.   湯浅七右衛門、米村茂右衛門が免許を得て帰国
1677 延宝5   錦帯橋周辺の河床に捨石をして、敷石を補強
1678 延宝6   錦帯橋の維持費に充てるための税である、橋出米が始まる
1682 天和2    拱肋(錦帯橋の主要構造部分)の補強部材である鞍木助木が考案される
1683 天和3 7.17 橋の普請が始まる(鞍木助木の取り付けのためか)
    10. 1 工事が完了
1685 貞享2 12.10 大地震により橋脚が沈下
1693 元禄6 7.   反橋の橋板敷替
1694 元禄7 7.   柱橋の架替カ
1699 元禄12 6.28 反橋の架替が始まる
    8.25 大屋嘉左衛門が架替図面を作成
    8.28 反橋の架替が完了
      雨水による腐食を防ぐため、橋脚に葛石と亀の甲石を補う
1703 元禄16 7. 4 柱橋架替のため斧初
    7.19 前日からの洪水により、横山側の柱橋の柱7本が流される
1706 宝永3   宇都宮遯菴著『極楽寺亭子記』に「錦見の里に近いので錦帯橋という」の記述有
1707 宝永4   反橋の橋板敷替
1714 正徳4 9.26 反橋架替のため斧初
    11.28 反橋の架替が完了、職役や普請奉行が見分、渡初はせず
    12.23 御普請奉行今田権太夫等、工事関係者へ褒美が遣わされる
      雨水による腐食を防ぐため、アーチの両端の階段部分の接合を相決重接法から水返し実付羽重ね矢引に改めた
1721 享保6 11. 2 柱橋へ防水加工のため、反橋同様に銅板を使用するようになる
1722 享保7 1.16 橋板材を仕入れるために大阪へ行っていた佐伯徳右衛門が帰国
    1.24 柱橋の橋板敷替が始まる
    2.10 橋の往来が禁じられ、渡船を利用するようになる
    3. 1 渡初め
1724 享保9 10.24 反橋が損傷しているので、敷替を命じられる
    12.12 反橋架替のため斧初
1725 享保10 2. 8 反橋の架替が完了、翌日から往来が許される
1737 元文2  11. 2 柱橋架替のため斧初
    11. 5 前日に完成した柱橋の見分、翌日から往来が許される
      御作事頭藤岡市蔵等、工事関係者へ褒美が遣わされる
1740 元文5 8.27 大屋清左衛門が大阪へ行く
    8.28 反橋(第4橋)の架替が御普請方品川太兵衛他へ命じられる
    10.15 反橋架替のため、翌日からの橋の往来が禁じられる
    11.11 大阪から木材が届かないため、工事が中断する
    12.20 反橋(第4橋)の架替が完了、往来が許される
1741 寛保元 6.24 反橋(第2橋)の架替が御作事頭今田嘉藤太他へ命じられる
    7. 2 反橋(第2橋)架替のため斧初
    8.25 反橋(第2橋)の架替が完了、往来が許される
    8.28 大工佐伯六郎右衛門が構造図を作成
1744 延享元 8.10 洪水により錦見側柱橋へ材木が流れかかり、柱橋が流失
    8.26 古木による応急処置を命じられる
    8.28 錦見側柱橋架替のため斧初、上流に流木避けの捨柱を立てる
    9.21 錦見側柱橋の架替が完了、往来が許される
1756 宝暦6 11.11 横山側柱橋が損傷しているので、架替が命じられる
    11.26 横山側柱橋の架替が完了、翌日から往来が許される
1759 宝暦9   修理(部分は不明)
1760 宝暦10 1.11 反橋(第4橋)が損傷しているので、架替が御普請方瀬川助右衛門他へ命じられる
    2.23 反橋(第4橋)架替のため斧初
    3.24 工事中、橋を支えている木が倒れ、大工等約20名が負傷
    4.28 反橋(第4橋)の架替が完了、往来が許される
      大工長谷川十右衛門が構造図を作成
1763 宝暦13 10. 3 錦見側柱橋の架替が御普請方山県藤左衛門他へ命じられる
    10.24 錦見側柱橋架替のため斧初
    11.25 錦見側柱橋の架替が半ば終り、引き続き反橋(第2橋)の架替が命じられる
    12. 3 錦見側柱橋の架替が完了、引き続き反橋(第2橋)の架替のため、往来は禁止
1764 明和元 2. 5 年末年始に許されていた橋の往来が禁じられ、渡船の利用が命じられる
    3.10 反橋(第2橋)の架替が完了、往来が許される
      大工頭原神兵衛、大屋市右衛門が構造図を作成
    9. 8 反橋(第3橋)が損傷しているので、架替が御普請方山根七郎左衛門他へ命じられる
    12. 5 反橋(第3橋)架替のため斧初
    12.   橋御普請方大屋市右衛門、原神兵衛が構造図を作成
1765 明和2 2. 4 反橋(第3橋)の架替が完了、往来が許される
1769 明和6 1.10 横山側柱橋が損傷しているので、橋板敷替が御普請方三戸三郎兵衛他へ命じられる
    1.16 横山側柱橋の橋板敷替のため斧初
    2. 3 渡船と工事作業道の両方の利用が許される
    2.17 横山側柱橋の橋板敷替が完了、往来が許される
1773 安永2 7.   橋の上下20間の間における漁猟が禁じられる
1778 安永7 1.14 錦見側柱橋の架替が御普請棟梁役大屋又右衛門他へ命じられる
      横山側柱橋の架替
      反橋(第2橋)の橋板敷替
    2.27 柱橋の架替カが完了、見分も終り、往来が許される
    3.   御普請棟梁役大屋四郎兵衛が構造図を作成
     5.26 反橋(第2橋)について、橋板の敷替は行ったが、橋体も損傷して危険なため、藩主や一族の通行は渡船によって行い、その他往来の人数が多い場合は少しずつ渡すように通行規制をすることが命じられ、また、牛馬の通行が禁じられる
    7.11 大洪水が発生し、堤防が決壊、城下の塀も崩れる中、錦帯橋は無事
    7.13 堤防の決壊による橋脚の修理のため、川原から橋脚への迂回路の設置が命じられる
    12. 5 反橋(第2橋)が損傷しているので、架替が橋御普請方宇都宮助右衛門他へ命じられる
    12.20 反橋(第2橋)架替のため斧初
1779 安永8 2.12 反橋(第2橋)の架替が完了、見分も終り、翌日から往来が許される
1780 安永9 8.24 反橋(第3橋)が損傷しているので、26日から修理のため往来を禁じ、渡船の利用が命じられる
    9.15 反橋(第3橋)の修理が完了、往来が許される
1782 天明2 7.13 洪水、反橋(第3橋)が損傷しているために設置していた支柱が流失、藩主は渡船を利用することとし、その他については、往来は許すが引馬は禁じられる
    10.22 反橋(第3橋)が損傷しているので、架替が橋御普請方宇都宮助右衛門他に命じられる
    11. 1 反橋(第3橋)架替のため斧初
    12.17 反橋(第3橋)の架替が完了、往来が許される
      橋方棟梁大屋市右衛門、大屋清左衛門、添棟梁原平五郎が構造図を作成
1788 天明8 8.25 横山側柱橋が損傷しているので、修理のため昼間の往来を禁じ、渡舟の利用が命じられる、夜は往来を許された
1792 寛政4   修理(部分は不明)
1796 寛政8 9. 2 反橋(第4橋)が損傷しているので、架替のため往来が禁じられ、渡船の利用が命じられる
    9.24 反橋(第4橋)が損傷しているので、架替が御普請方朝枝五郎兵衛他へ命じられる
    9.30 反橋(第4橋)架替のため斧初
    11.29 工事作業道が崩れ、3人が軽傷
    12.20 反橋(第4橋)の架替が完了、往来が許される
      横山側柱橋の架替
      雨水による腐食を防ぐため、高欄土台の下に枕木を入れるようになる
1801 享和元 11.   反橋(第2橋)の架替
1802 享和2 11.   反橋(第2橋)架替のため斧初
    12.   反橋(第2橋)の架替が完了
      棟梁役原久右衛門が構造図を作成
1806 文化3 12.23 反橋(第3橋)の架替が完了、渡初め
1811 文化8 2.20 翌日から架替のため往来が禁じられ、渡船の利用が命じられる
    3.20 反橋(第4橋)の棟合
    4. 8 反橋(第4橋)の架替が完了
      横山側柱橋の架替
1825 文政8 10.17 反橋(第3橋)架替のため斧初
1826 文政9 1.25 反橋(第3橋)の架替が完了、渡初め
      棟梁細矢七右衛門が構造図を作成
    7. 7 左右から拱肋を組み立タてる際、先陣争いをして、がうまく合っていないことがあったため、張り出しを始める日を一日ずらし、板敷の日を同じ日とすることとする
    11.   反橋(第2橋)架替の為の材料について、伊予の国に良質の材木があるとして、作事組片山ノ半左衛門が派遣される
    11.27 反橋(第2橋)架替のため斧初
    大工棟梁大屋権左衛門が構造図を作成
1827 文政10 1.   斧初は行ったものの木材が届かないため中断していた、反橋(第2橋)の架替が始まる
     2.28 反橋(第2橋)の架替が完了、渡初め
    10.28 錦見側柱橋橋板敷替のため、翌日から往来が禁じられる
1828 文政11 10.21 反橋(第4橋)架替のため斧初
    11. 7 迂回路を設置、夜はそのまま往来が許される
    12.19 反橋(第4橋)の架替が完了、往来が許される
    棟梁大屋権左衛門が構造図を作成(これによると11.21斧初、12.20完了)
1830 天保元   修理(部分は不明)
1831 天保2 4.   橋脚が損傷したため、一時往来が禁じられる
1837 天保8   橋板敷替(部分は不明)
1838 天保9   横山側柱橋柱修理
1839 天保10   橋板修理(部分は不明)
1841 天保12 1.25 架替のため、翌日から仮橋の往来が命じられる
     2.12 架替が完了、往来が許される
1843 天保14 10. 7 洪水対策として、上流に石垣と柳を植え込むことが許される
1845 弘化2 9.25 反橋(第4橋)の架替に城山の木を利用するため、護館神にて山での安全を祈願した
    10. 7 反橋(第4橋)の架替が屋敷方桑原甚兵衛他へ命じられる
    11. 7 反橋(第4橋)架替のため斧初
    11.19 反橋(第4橋)の架替のため、川を一部堰きとめる
    11.30 反橋(第4橋)の解体が完了
    12.10 反橋(第4橋)の棟合が近々終わるので、内々でお祝い
    12.18 反橋(第4橋)の架替が完了、見分
1847 弘化4 11.27 橋出米が年々不足しているので、弘化2年の精算は橋出米からではなく、藩の通常の予算から支出し、橋出米はこれまでの不足の返済に充てることとする
1848 嘉永元 9. 2 反橋(第3橋)の架替が橋御普請方大屋鍋次郎他へ命じられる
    10.16 反橋(第3橋)架替のため斧初
    11. 9 迂回路を設置、往来が許されるが牛馬は禁じられる
    11.30 反橋(第3橋)の棟合
    12. 7 横山側柱橋の橋板敷替が完了したため、迂回路を解体し、渡船の利用が命じられる
    12.18 反橋(第3橋)の架替、横山側柱橋の橋板敷替が完了、見分、渡初め
1852 嘉永5 10.17 反橋(第2橋)、錦見側柱橋の橋板敷替が命じられる
    12.18 反橋(第2橋)、錦見側柱橋橋板敷替のため斧初
1853 嘉永6 2.13 反橋(第2橋)、錦見側柱橋の橋板敷替が完了、渡初めはせず、翌日から往来が許される
1857 安政4 11.13 反橋(第4橋)の架替が橋棟梁役大屋亦右衛門他へ命じられる
    11.20 反橋(第4橋)架替のため斧初
    12.25 作業道を設置、往来が許される
1858 安政5 1. 5 翌日から架替のため往来が禁じられ、渡船の利用が命じられる
    2. 2 反橋(第4橋)の架替が完了、渡初め
1859 安政6 10.15 反橋(第2橋)の架替、錦見側柱橋橋板敷替のため斧初(岩邑年代記によると横山側)
    11.20 22日に棟合わせ
    12.20 反橋(第2橋)の架替、錦見側柱橋橋板敷替が完了、見分、往来が許される
1861 文久元   反橋(第3橋)の修理
1868 明治元   正式に岩国藩となる
      反橋(第3橋)の架替
1870 明治3 8.17 反橋(第2橋)が損傷しているので、橋板敷替が必要となり、材料として松の使用が許される、反橋(第4橋)も損傷があるが近年中に架替を行う予定であるので、敷替によって生じる反橋(第2橋)の古材を再利用することとする
    8.23 橋板敷替に松を使用する予定であったが、樅の方が安いため倉谷山(天尾)の樅を使用することとなる
1871 明治4 7.14 廃藩置県
      反橋(第4橋)、横山側柱橋の架替
1872 明治5   錦帯橋図がオーストリアの博覧会に出品される
1884 明治17 2.27 橋板敷替が完了
    4. 5 渡初め
1889 明治22 1. 1 反橋(第2、3橋)が傾いているため、往来が禁じられる
1891 明治24   修理
1895 明治28 6.20 反橋(第3橋)が傾き危険なため、往来を禁じられ、無賃の渡船の利用が命じられる
    反橋(第3橋)の架替が始まる
    12.23 反橋(第3橋)の架替が完了、渡初め、橋上餅まきが行われる
1897 明治30 6. 3 反橋(第2橋)、錦見側柱橋の修理が完了、渡初め
    12.   横山側柱橋の架替が始まる
1898 明治31 2. 1 架替が完了、渡初め、奉告式、橋上餅まきが行われる
1910 明治43 2. 7 柱橋の橋板敷替が完了、渡初め
1915 大正4 7.20 臥竜橋を国道に編入し、錦帯橋を岩国町の管理とする
      反橋(第4橋)の橋板敷替
1919 大正8 5.17 橋板敷替完了
      高欄親柱を大きな円柱とし、頭に青銅製の擬宝珠を付ける
1922 大正11 3. 8 史蹟名勝天然記念物保存法により名勝に指定される
1929 昭和4   反橋(第4橋)、横山側柱橋の架替
1934 昭和9   反橋(第2、3橋)、錦見側柱橋の架替
      中津の楠が橋杭に使用される
1940 昭和15   岩国市制施行
      皇太子殿下行啓
1943 昭和18 8.24 当初の指定地域から、上流350間、下流230間の地域が追加指定される
1950 昭和25 9.14 キジア台風により錦帯橋流失、岩国市議会において「錦帯橋復旧再建に関する決議」、政府に対して復旧再建について全額負担を要望することとする
    9.17 岩国商工会議所、岩国観光協会、岩国保勝会が市議会へ再建要望の請願書を提出
    9.22 山口県10市議会議長緊急臨時総会を開き、再建への協力を約す
    9.27 文部省管理局事務官が教育施設とともに錦帯橋を視察
    10.   義済堂従業員組合が運動会を中止し、そのための貯金を再建費に寄附する
1951 昭和26 2.22 錦帯橋再建の起工式
1953 昭和28 1.15 渡初め
    5. 3 完工式
1966 昭和41 4. 1 40年の錦城橋の完成により市道認定が解除され、架替に備えて渡橋料を徴収するようになる
1967 昭和42   錦見側柱橋の橋板敷替
1968 昭和43   錦見側柱橋以外の橋板敷替
1980 昭和55   敷石修復工事(~昭和60年度)
2001 平成13   反橋(第3橋)の架替
2002 平成14   反橋(第4橋)、横山側柱橋の架替
2003 平成15   反橋(第2橋)、錦見側柱橋の架替
2005 平成17 9. 6 台風14号の集中豪雨により、第一橋の橋杭組2基流失(~9.7)
    9. 7 耐久検査・補強工事のため渡橋禁止(~9.22)
    9.23 渡橋再開


Back to Top