「流れない橋を造りたい」という情熱が生んだ、技術の結晶。

【橋の維持・管理のための施策】
(江戸時代)

錦帯橋は創建の翌年、延宝2年(1674)には洪水によって流失し、同年には再建。それ以降、さまざまな技術的な改良が施されています。また、橋の両側には橋守をおき、日々の管理が行われました。さらに、以下のような橋を守るための施策が実施されたのです。

■延宝3年(1675)
架替・改修費用を藩の全ての階級(武士から農民まで)から徴収する「橋催相」(はしもやい)を開始。武士は石高10石につき1人役、屋敷1建につき1人役でした。

■延宝6年(1678)
恒常的に徴収される税金として「橋出米」(はしだしまい)を開始。これは、明治4年(1871)の廃藩置県まで続けられました。

町方は、表家の間口1間につき米5合が課せられ、横借家と柳井津・玖珂町は間口2間につき米7合5勺。家中と寺社は知行高10石につき米7合5勺、別に屋敷を持つ者は軒別米7合5勺が課せられ、在方(農村地)には軒別米7合5勺が課せられました。

■安永2年(1773)
錦帯橋上下流20間(敷石施工範囲)において、川舟の係留、漁猟を禁止しています。

【架橋・大工技術の伝承】

〈定期的に行われてきた架替〉

古文書『御用所日記』『算用所日帳』『御納戸日記(帳)』等には、創建からの修復記録が残されています。これによると、錦帯橋は定期的に架け替えられてきたことがわかります。桁橋は約40年ごと、アーチ橋は約20年ごと、橋板や高欄の取り替えは約15年ごとです。

古図や古文章に残されている大工棟梁の名前を見ると、人から人へ技術の継承が行われてきたことがわかります。これに見習い、平成13年(2002)から3年間かけた「平成の架替」では、幅広い年齢層から大工を起用し、将来の架け替えに備えました。

架替年表(○印は架け替えが行われた橋。色付け部分は図面が残されている)
架替年表(○印は架け替えが行われた橋。色付け部分は図面が残されている)

〈大工技術の口伝〉

創建以来、受け継がれてきた架橋・加工技術ですが、それは大工の個人的な経験によるところが大きくあります。昔から大工の世界では図面や文章に書き表せないことを、言葉で伝える「口伝」という方法が採られています。江戸時代はもちろん、現在においても変わりはありません。

例えば、その一つに、「木を観る」という技術があります。同じ種類の木材でも、一つ一つは違った性質や癖を持っています。

階段部の平均木加工作業
階段部の平均木加工作業

それを観て、触って判断し、適材適所に配置する。木造に携わる者として、必ず習得しなければならない技術と言えます。材木への墨付けの作業や、加工に際しての細工の一つ一つに、「木を観る」技術が不可欠なのです。

しかし、これを習得するのは容易ではありません。先輩から教えを受け、多くの経験を積んで得ることのできる「口伝」による技なのです。

錦帯橋の架替がこれまで定期的に行われてきた背景には、このような大工技術の伝承がありました。

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