「流れない橋を造りたい」という情熱が生んだ、技術の結晶。

【アーチ橋の建設方法】

〈構造図〉

現在、残っているアーチ桁の古い構造図は12枚です。最古のものは元禄12年(1699)のもの。創建から26年後にあたります。それから文政11年(1826)までの12枚が現存しています。最古の図面には、桁の勾配や本数、材種などが詳細に書き込まれています。

元禄12年(1699)第2・3・4橋の架替 大屋嘉左衛門
元禄12年(1699)第2・3・4橋の架替 大屋嘉左衛門
元文5年(1740)第4橋、寛保元年(1741) 第2・3橋の架替 佐伯六郎右衛門
元文5年(1740)第4橋、寛保元年(1741) 第2・3橋の架替 佐伯六郎右衛門
宝暦10年(1760)第4橋の架替 長谷川十右衛門
宝暦10年(1760)第4橋の架替 長谷川十右衛門
明和元年(1764)第2橋の架替 大屋市右衛門、原神兵衛
明和元年(1764)第2橋の架替 大屋市右衛門、原神兵衛
明和元年(1764)第3橋の架替 大屋市右衛門、原神兵衛
明和元年(1764)第3橋の架替 大屋市右衛門、原神兵衛
安永7年(1778)第4橋の架替 大屋四郎兵衛
安永7年(1778)第4橋の架替 大屋四郎兵衛
天明2年(1782)第3橋の架替 大屋市右衛門、大屋清左衛門
天明2年(1782)第3橋の架替 大屋市右衛門、大屋清左衛門
享和2年(1802)第2橋の架替 原久右衛門
享和2年(1802)第2橋の架替 原久右衛門
文化8年(1811)第4橋の架替 原久右衛門
文化8年(1811)第4橋の架替 原久右衛門
文政8年(1825)第3橋の架替 細矢七衛門
文政8年(1825)第3橋の架替 細矢七衛門
文政9年(1826)第2橋の架替 大屋権左衛門
文政9年(1826)第2橋の架替 大屋権左衛門
文政11年(1828)第4橋の架替 大屋権左衛門
文政11年(1828)第4橋の架替 大屋権左衛門

 

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