ついに「流れない橋」は完成。そして、改良の歴史がはじまった

【第三章】

完成、そして改良

『西湖志』の絵にヒントを得たアイデアは、すぐに実現に向けて進むこととなりました。絵にある小島のような頑強な橋脚が築かれることになったのです。橋脚は、水流方向にとがった角を持つ紡錘形とし、水の抵抗を最小限にとどめる形状にするなど、様々な工夫がなされました。

寛文13年(1673)6月28日、橋脚の鍬初めが行われました。橋脚の構築と同時に橋梁の建設も進められ、延宝元年(1673)10月1日に、長年の夢だった『流れない橋』が完成。関係者には褒美が与えられました。

しかし、この橋は、翌年5月28日に洪水によって流失。橋はこれ以降、本当に『流れない橋』の実現のため、様々な改良を加えられることになりました。

橋は、流失した年内には再建。その翌年、延宝3年(1675)、流失の一因と思われた橋脚下部を固定する工法を改良するため、湯浅七右衛門と米村茂右衛門が近江(滋賀県)の戸波駿河のもとへ派遣されました。両名は要害石垣の築造法などを学び、延宝4年9月に免状を得て帰国。延宝5年に敷石の補強をし、錦帯橋周辺の河床に捨石を施し、敷石の補強を重ねました。

天和2年(1682)には、人が渡るときの揺れを抑える働きをもつ鞍木(くらぎ)助木(たすけぎ)が考案されました。近年の強度実験でも、これらの部材によって、人が渡るときの初期微動が抑えられていることが、実証されています。つまり、それまでの錦帯橋は人の歩行によって、上下左右の揺れが激しかったと考えられます。

錦帯橋図面(1699年)
錦帯橋写真(1870年代)

主な改良や橋を守るための取組みを挙げると、以下の通りです。これらの度重なる改良や定期的な架け替え、橋板の張り替え等を足し合わせると、その回数は100回を超えました。

  • 天和2年(1682)、鞍木(くらぎ)助木(たすけぎ)が考案され、人が渡るときの揺れが抑えられました。
  • 元禄12年(1699)、反り橋(2、3、4橋)架け替時、橋脚上部に葛石(かずらいし)と亀の甲石(かめのこういし)を新設。雨水が橋脚内部に入って拱肋(アーチの主要構造部分)基部が腐食するのを防ぎました。
  • 正徳4年(1714)、アーチ両端の階段部分の矧方(はぎかた)を、雨水が拱肋基部に入らないように「相决り重ね矧」から「水返し実付重ねはぎ矧」に改めました。
  • 享保6年(1721)11月、これまで特に防水の工夫はしていなかった両側の柱橋(1、5橋)の橋板継目も、反り橋と同様に銅板で覆いました。
  • 元文2年(1737)~寛保元年(1741)、親柱の頭部に親柱笠木を載せる。
  • 延享元年(1744)には上流側に流木避けの捨柱を立てました。
  • 安永2年(1773)7月26日、橋や敷石を保護するため、橋の上下20間(36m余)の間での漁猟を禁止。
  • 寛政8年(1796)、橋板に溜まる雨水を外へ流れるようにするとともに、高欄土台の腐朽を防ぐため、橋板上に直接載っていた土台の下に枕木を設けました。
  • 大正8年(1919)には、高欄の形式を親柱の頭に青銅製の擬宝珠を付けた「擬宝珠高欄」としたが、 これは格式を高く見せようとしたためでした。
錦帯橋架替工事写真:栗原写真館撮影(1898年) 錦帯橋架替工事写真:栗原写真館撮影(1898年)
錦帯橋架替工事写真:栗原写真館撮影(1898年) 錦帯橋架替工事写真:栗原写真館撮影(1898年)

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